ケ・セラ・セラ
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 あなたの写真にキラキラ動画を♪
エリンは,最近スウェーデンで,105歳以上の人として名簿に載せられた60人のうちの一人です。エリン自身は105歳です。老人ホームにいて外には出られませんが,健康の許す範囲で,エホバの活発な証人として奉仕を続けています。それはエリンが60年以上前に選んだ生き方です。
他の人たちに宣べ伝える点でエリンは,軟禁状態に置かれて家から出られなかった使徒パウロの模範に倣っています。パウロは訪ねてくる人すべてに宣べ伝えました。(使徒 28:16,30,31)同じようにエリンも,あらゆる機会をとらえて,清掃係,歯科医,医師,美容師,看護師その他,老人ホームで会う人たちに話しかけ,聖書の良いたよりを伝えます。時々,エリンのクリスチャン会衆の仲間が,聖書研究生を誘ってエリンに会いに来ることさえあります。研究生が,エリンの知識や経験から益を得られるからです。
エリンの会衆の人たちは,エリンが朗らかで好奇心も旺盛なことに感心しています。「エリンは会衆の活動にしっかりついてくるのですから,大したものです。子どもたち全員の名前と,会衆に移動してきたばかりの人たちの名前を覚えているんです」と,仲間の証人の一人は言います。エリンは,もてなしの精神やユーモアのセンスがあり,人生に対して前向きな見方をすることでもよく知られています。
エリンが喜びを保ち,人生の目的を常に見据える上で,何が役立っているのでしょうか。エリンは,エホバの証人が発行した,「日ごとに聖書を調べる」という小冊子の中の聖句を一つ読むことを日課にしています。また,拡大鏡の助けを借りて,毎日,聖書の一部を読んでいます。エホバの証人が毎週開く集会のための予習もします。実際に出席することはできませんが,集会を録音したものに耳を傾けます。わたしたちも,聖書や聖書に基づく出版物を欠かさず読み,クリスチャンの集会をおろそかにしないなら,年齢にかかわりなく,目的のある充実した人生を送ることができます。―詩編 1:2。ヘブライ 10:24,25。
2008/04/18/
17:46 個人研究 /
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 オリジナルのキラキラ画像が作れます☆
ジョイというクリスチャンの女性は,息子がエホバ神を愛する人になるよう一生懸命育ててきました。しかし,その息子は十代後半になると,親に反抗し,家を出て行きました。ジョイはこう言います。「今まで経験したことがないほど深く傷つきました。裏切られたように感じ,挫折感に襲われました。悲しくてどうしようもなく,消極的な考えばかりが浮かんできました」。
あなたも,お子さんが神を愛し神に仕える人となるよう,一生懸命努力してこられたかもしれません。しかし,子どもの一人または何人かが神に背を向けてしまう,という経験をされたでしょうか。どうすればその深い失意に対処できますか。エホバに仕える点で堅く立ち続けるのに何が助けになるでしょうか。
まず,エホバがあなたの気持ちをよくご存じであることを思いに留めましょう。イザヤ 49章15節にはこう記されています。「妻が自分の乳飲み子を忘れて,自分の腹の子を哀れまないことがあろうか。こうした女たちでさえ,忘れることもあり得る。しかし,わたしがあなたを忘れることはない」。そうです,エホバは父親や母親と同じ感情を持たれるのです。ですから,神の子であるみ使いたちが皆,神を賛美し,神に仕えていた時,エホバ神が味わわれた喜びを想像してください。エホバは「風あらしの中から」族長ヨブにお答えになった際,霊の子たちから成る一致した家族と過ごした幸福な時を思い起こされ,こう言われました。「わたしが地の基を置いたとき,あなたはどこにいたのか。……明けの星が共々に喜びにあふれて叫び,神の子たちがみな称賛の叫びを上げはじめたときに」。―ヨブ 38:1,4,7。
後にまことの神は,ご自分の子であるひとりの完全なみ使いが反逆し,「抵抗者」を意味するサタンになるのを目にしました。また,ご自分の最初の人間の子アダムと,その完全な妻エバが反逆に加わるのをご覧になります。(創世記 3:1‐6。啓示 12:9)その後,他のみ使いたちも「そのあるべき居所を捨て」,神に反逆します。―ユダ 6。
一部の完全な子どもたちが反逆の道に進んだ時,エホバがどうお感じになったかについて,聖書は何も述べていません。とはいえ,次のことをはっきり述べています。「エホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうのをご覧になった。そしてエホバは,地に人を造ったことで悔やみ,その心に痛みを覚えられた」。(創世記 6:5,6)エホバの選ばれた民イスラエルの反逆も,神に「痛み」を与えました。―詩編 78:40,41。
子どもの反抗に心を痛めている親の気持ちをエホバがよく察してくださることに,疑問の余地はありません。神は,親がそうした状況に対処できるよう,み言葉 聖書の中で健全な助言と励ましを与えておられます。思い煩いをご自分にゆだね,謙遜な者になり,悪魔サタンに立ち向かうよう勧めておられます。では,子どもが反抗の道に進んだ場合,この助言に従うことがどのように堅く立ち続ける助けになるか,考えてみましょう。
子どもが自ら害を身に招く,あるいは他の人から害を被る危険があると,親は非常に不安に思うものです。そのことをエホバはよく知っておられます。使徒ペテロは,そうした問題や他の心配事に対処するための方法をこう述べています。「自分の思い煩いをすべて[エホバ]にゆだねなさい。神はあなた方を顧みてくださるからです」。(ペテロ第一 5:7)反抗の道に進む子どもを持つ親にとって,この勧めと保証が特に適切であると言えるのはなぜでしょうか。
お子さんがまだ幼かったころ,あなたはお子さんを危険から守るためにいつも気を配り,お子さんもあなたの愛情深い導きにこたえ応じたことでしょう。しかし,子どもが大きくなるにつれ,親の影響力は弱まっていきます。それでも,子どもを害になることから何としても守りたいという気持ちは弱まりません。それどころか,強まっていることでしょう。
ですから,お子さんが反抗し,霊的,感情的,身体的な害を受けると,あなたは自分に責任があると感じるかもしれません。冒頭で触れたジョイもそうでした。「毎日,親として失格だという気持ちに悩まされ,それまでの自分の言動をくよくよ考えてばかりいました」と言います。しかし,そのような時にこそ,「自分の思い煩いをすべて神にゆだね(る)」ようにとエホバは願っておられるのです。そうするなら,神はあなたを助けてくださいます。「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる。神は義なる者がよろめかされることを決してお許しにならない」と詩編作者は述べています。(詩編 55:22)ジョイもそのような慰めを得ました。「わたしは自分の心の奥底にある気持ちをすべてエホバにお話ししました。何もかも話すことができ,気持ちがとても楽になりました」と言っています。
親も不完全ですから,子どもを育てる際に間違いをしたことがあるかもしれません。しかし,そうした間違いばかりに目を留めるべきでしょうか。エホバはそのようなことはなさいません。霊感を受けた詩編作者は,「ヤハよ,あなたの見つめるものがとがであるなら,エホバよ,いったいだれが立ち得るでしょうか」と歌いました。(詩編 130:3)あなたが完璧な親であったとしても,お子さんは反抗していたかもしれないのです。ですから,自分の気持ちを祈りの中でエホバに打ち明けてください。そうするなら,エホバは対処できるように助けてくださいます。とはいえ,あなた自身がエホバに仕える点で堅く立ち続け,サタンの犠牲にならないようにするには,ほかにも行なうべきことがあります。
「神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい。そうすれば,神はしかるべき時にあなた方を高めてくださるのです」と,ペテロは書きました。(ペテロ第一 5:6)子どもが反抗の道に進む時,親に謙遜さが必要となるのはなぜでしょうか。そのような時,親は自分の至らなさを感じ,心痛を味わうだけでなく,多少きまり悪い思いをするかもしれません。子どもの行動によって,家族の評判が損なわれたのではないかと思うこともあります。子どもがクリスチャン会衆から排斥された場合は特にそう言えます。自責の念と恥ずかしさとが相まって,クリスチャンの集会に行きたくないと思うかもしれません。
そのような状況に対処するには,実際的な知恵を働かせる必要があります。箴言 18章1節は,「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求める。その者はあらゆる実際的な知恵に逆らって突き進む」と警告しています。深い悲しみを味わっていても,クリスチャンの集会に定期的に出席するなら,教えや励ましが得られます。集会はそのための重要な備えです。ジョイはこう言います。「最初はだれにも会いたくありませんでした。でも,霊的な習慣を崩さないことが大切だと自分に言い聞かせました。それに,家にいたなら問題をくよくよ考えてばかりいたと思います。集会へ行ったおかげで,霊的に築き上げる事柄に思いを集中するよう助けられました。自分を孤立させないで本当によかったと思います。自分を孤立させていたなら兄弟姉妹からの愛情深い支えを得損なったことでしょう」。―ヘブライ 10:24,25。
家族の成員がそれぞれ,クリスチャンとしての責任という「自分の荷を負う」必要のあることも忘れないでください。(ガラテア 6:5)エホバは親に,子どもを愛し,懲らしめを与えることを求めておられます。また子どもには,親に従い,親を敬うよう求めておられます。子どもを「エホバの懲らしめと精神の規整」とをもって育てるよう最善を尽くすなら,親は神のみ前で良い評判を得ることができます。(エフェソス 6:1‐4)子どもが親の愛情深い懲らしめをはねつけるなら,実際に損なわれるのは子どもの評判なのです。箴言 20章11節は,「少年はまさにその行ないによって,その行動が浄く,廉直であるかどうかを明らかにする」と述べています。サタンはエホバに反逆しましたが,事情によく通じている被造物の間では,それによってエホバの評判が損なわれることはありませんでした。
「冷静さを保ち,油断なく見張っていなさい。あなた方の敵対者である悪魔がほえるライオンのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしています」と,ペテロは警告しています。(ペテロ第一 5:8)ライオンのように,悪魔はしばしば若い人や経験の浅い人を標的にします。昔,イスラエルの地では,ライオンがうろつき回って,家畜に危害を加えることがありました。子羊が群れからさまよい出るなら,簡単にえじきになってしまったでしょう。母羊はとっさに自分の命を危険にさらして子羊を守るかもしれませんが,おとなの羊でもライオンにかなうはずはありません。ですから,群れを守る勇敢な羊飼いが必要だったのです。―サムエル第一 17:34,35。
エホバは,ご自分の比喩的な羊を「ほえるライオン」から守るために,「主要な牧者」であるイエス・キリストのもとで群れを世話する,霊的な牧者たちを備えてくださいました。(ペテロ第一 5:4)ペテロはそれら任命された男子にこう説き勧めています。「あなた方にゆだねられた神の羊の群れを牧しなさい。強いられてではなく,自ら進んで行ない,不正な利得を愛する気持ちからではなく,真剣な態度で牧しなさい」。(ペテロ第一 5:1,2)牧者たちは,親の協力を得つつ,若者が自分の歩みを霊的に正すよう援助できるでしょう。
反抗の道に進む子どもは,クリスチャンの牧者からの助言を必要とする場合があります。そのような時に親は子どもをかばい,懲らしめを受けなくて済むようにしてあげたいという衝動に駆られるかもしれません。しかし,そうすることは重大な誤りです。ペテロは,「[悪魔]に立ち向かいなさい」と述べたのであって,霊的牧者に立ち向かうようにとは述べていないのです。―ペテロ第一 5:9。
お子さんがバプテスマを受けたクリスチャンであり,悔い改めていないなら,最も強い形の懲らしめが与えられる,つまり会衆から排斥されるかもしれません。親が,排斥された子どもとどの程度の接触を持つことができるかは,子どもの年齢と他の事情によって決まります。
子どもが未成年で,親元で暮らしているなら,親は当然,子どもの身体面での必要を引き続き顧みることでしょう。子どもには道徳的な訓練や懲らしめも必要であり,親にはそれを与える責任があります。(箴言 1:8‐18; 6:20‐22; 29:17)その子どもとの聖書研究を司会したいと思うかもしれません。子どもに直接参加してもらうことができるでしょう。子どもの注意をさまざまな聖句や,「忠実で思慮深い奴隷」の備えた出版物に向けることができます。(マタイ 24:45)また,クリスチャンの集会に伴い,自分の隣に座らせることができます。子どもが聖書の助言を心に留めるようになることを願って,そうした事柄を行なうのです。
排斥された子どもが未成年ではなく,親元を離れて生活している場合は事情が異なります。使徒パウロは古代コリントのクリスチャンに,「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように」と訓戒しています。(コリント第一 5:11)家族に関係した必要な事柄のために,排斥された子どもと幾らか接触する必要があるかもしれません。それでも,クリスチャンの親は不必要な交わりを避けなければなりません。
過ちを犯した子どもがクリスチャンの牧者たちから懲らしめを与えられた場合,親が聖書に基づくそのような処置を退けたり軽視したりするのは賢明ではありません。子どもをかばうとしても,悪魔から子どもを本当に守ることにはなりません。実のところ,あなた自身の霊的健康を危険にさらしているのです。一方,援助の手を差し伸べる牧者たちに協力するなら,あなたは「堅い信仰」を保つことができます。またそれは,お子さんにとって最善の助けとなります。―ペテロ第一 5:9。
もしお子さんが反抗の道に進んだとしても,そうした経験をしたのはあなただけではないということを忘れないでください。他のクリスチャンの親たちも同様の経験をしています。どんな試練に遭うとしても,エホバはわたしたちを支えることができるのです。―詩編 68:19。
祈りのうちにエホバに依り頼んでください。クリスチャン会衆と定期的に交わり,任命された牧者が与える懲らしめを支持してください。そうするなら,堅く立ち続けることができます。そして,お子さんはあなたの良い手本によって,ご自分のもとに帰るようにとのエホバの愛情深い勧めに応じるかもしれません。―マラキ 3:6,7。
2008/04/17/
11:01 個人研究 /
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1 血は生命のために肝要です。この事は遠い昔から知られてきましたが,近年の研究によって,血液が生命維持のためいかに重要な機能を果たしているかについてその理解は次第に深まっています。
1 血に関するどんな事実が,よりよく知られてきましたか。
2 人間の血を患者の体内に注入することは現代の医療において大きな地位を占めています。医療に携わる人々,また他の多くの人々も,一人の人から別の人の体に血を移し入れることを,広く受け入れられた治療法とみなしています。1 しかし,輸血を受け入れない人々もいます。それはエホバの証人たちです。
2 どんな治療法が広く受け入れられていますか。しかし,それに同意しないのはだれですか。
3 エホバの証人は生命を大切にし,それを極めて尊重すべきものとみなしています。証人たちがたばこをのまず,惑溺性の麻薬を用いず,堕胎などを求めないのも,一つにはそうした理由によります。証人たちは,生命が神聖なもの,自らのためにも自らの子供たちのためにも維持し保護すべきものであることを,聖書から学び知っています。
4 では,なぜエホバの証人は輸血に異議を唱えるのですか。死に直面してさえ守ろうとするその信念にはそれなりに道理に即した理由があるのですか。また一方で,この問題に関する証人たちの立場は,現代の医学知識また医学上の原則と全く相入れないものなのですか。
3,4 命に関して,エホバの証人は聖書のどんな見方を保っていますか。また,このことはどんな質問を提起しますか。
5 これは医業に携わるすべての方に関心を示していただける点と思います。医師は,輸血をめぐるこの問題にいつどのような事態で直面するか知れないからです。それはあり得ない事ではありません。エホバの証人は全地に200万人以上いるからです。あなたのおられる地域にもエホバの証人が住んでいることでしょう。以下は,医師の方たちに,患者としてのエホバの証人を理解していただくため,また,証人たちの見解が決して道理に外れたものではないことを知っていただくためにまとめられました。まず,証人たちの立場についてその宗教上の理由を取り上げます。次いで,17ページ以降では,関係する倫理上の問題,また専門の医師たちによる最近の発見や報告がまとめられています。それは血の使用をめぐる問題の処置に当たって役立てていただけるものと思います。
5 この出版物の目的は何ですか。また,その問題はどのように扱われますか
6 医療に直接従事していない方たちにも,この重要な問題に目を向けていただきたいと思います。血に関してエホバの証人が取る立場は,実際には,わたしたち一人一人に関係のある権利や原則にかかわるものです。また,証人たちがどんな理由で何を信じているかを知っていただくなら,医師,法律学者,聖書の研究者たちの注目してきたこの問題に対する理解を深めていただけることにもなるでしょう。では,この問題において最も重要な要素となっているのは何ですか。
6 この問題はだれの関心を引くものですか。

7 多くの医師は,血の使用を,どんな薬剤を使いどんな外科的処置を施すかに関する日常の判断と同じように,本来医学上の判断の問題であるとみなします。またある人々は,エホバの証人の立場をむしろ倫理上もしくは法律上の問題であるとみなすかもしれません。生きる権利とか,自己の体に関する決定の権限,あるいは市民の生命を保護する行政府の責務といった角度からも論じられることでしょう。これらの面はすべて問題と結び付きを持っています。しかし,エホバの証人が取る立場は,何よりも信教上のものです。聖書の述べることに根ざした立場なのです。
7 血の使用に関してどんな見方がありますか。また,血に関してエホバの証人の取る立場は何に根ざしていますか。
8 上記の最後の一文についてその妥当性を問う人も多いことでしょう。血の使用を支持し,血液銀行を設けたり,供血を促したりしている教会組織も多くあるからです。そこで,当然問われるのは次の点です。
8 エホバの証人の取る立場について考えるとき,どんなことが当然問われますか。
人が血を体内に取り入れることについて聖書は何と述べていますか。
9 聖書を霊感の下に記された神の言葉とは見ていない人でも,聖書が血について多くを述べていることは認めねばならないでしょう。聖書の巻頭の書から巻末の書に至るまでに,「血」に関して述べる箇所が400以上あります。幾つかの章句は,血を用いて生命を支える問題について特に述べています。それらの聖書の章句をまず簡単に調べましょう。
10 聖書の記録に示される点ですが,人類史の初期に,創造者すなわち生命の授与者は血の問題に関する見解を表明されました。全地球的な洪水のすぐ後,動物の肉を食べることを人間に初めて許した時,神はノアとその家族にこう命じました。「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれをすべてあなた方に与える。ただし,その魂すなわちその血を伴う肉は食べてはならない」―創世 9:3,4。
9,10 聖書が血について多くを述べているということは,何を示していますか。また,人類史の初期に,神は血に関するどんな命令をお与えになりましたか。
11 まず初めに,創造者は,人類が新たな出発をするこの時に当たって,食物に関する規定を設けておられました。(創世記 1:29と比較してください。)しかし,神がここで示された通り,食物のために動物を殺すことには,単にそれによって食品を得る以上の事が関係していました。それは,生き物の血がその生き物の生命もしくは魂を表わしていたからです。それで,幾つかの聖書翻訳は上記の創世記 9章4節を次のように訳しています。「しかし肉を,その命である血のままで,食べてはならない」―日本聖書協会口語訳。また,米国改訂標準訳,モファット訳。
11 動物を殺すことには,単にそれによって食品を得る以上の事が関係していたということを,何が示していますか。
12 したがって,神のこの規定は,ちょうど医師が患者に塩分や脂肪分を控えることを勧める場合のような,単なる食事上の制限ではありませんでした。創造者は,極めて重要な道徳上の原則を血と結び付けたのです。普通に流れ出る血をすべて注ぎ出すことによって,ノアとその子孫は,生命が創造者からのものでありまた創造者に依存するものであるという認識を表明することになりました。しかし,この問題についてはさらに調べましょう。
13 ここに引用した聖句は動物の血について述べています。同じ原則が人間の血についても当てはまるのでしょうか。そうです,一層の重要度をもって当てはまります。神はノアに対して,さらにこう言われたからです。「さらにわたしは,あなた方の魂の血について取り返しを求める。……だれでも人の血を流す者は人によって自らの血を流される。神の像に人を造ったからである」。(創世 9:5,6)動物の血(それは動物の生命を表わす)が神にとって神聖な意味を持つものであったなら,人間の血はより大きな意味で神聖なものとされたはずです。こうした神の指示に従う人は,人を殺して血を流すようなことをせず,また動物や人間の血を食べることもしないでしょう。
12,13 創造者は,血の使用を何と結び付けましたか。また,単に動物の血だけが関係しているわけではないことを,どのようにして知ることができますか。
しかし,ノアに対するこの命令は限定的もしくは一時的な規定であったのではありませんか。それは,後の世代の人々,そしてわたしたちにも関係のあるものなのですか。
14 神はここで,単にノアとその直属の家族だけでなく,それ以後の全人類に当てはまる規定を定めました。(実際のところ,その大洪水以後に生きたすべての人はノアの家族から出ています。―創世 10:32)多くの聖書学者はその事を認めています。例えば,神学者であり宗教改革者であったジャン・カルバンは,血に関する上記の禁令について,「この律法は洪水のすぐ後の全世界に与えられた」ことを認めていました。2 また,ハイデルベルク大学の教授ゲルハルト・フォン・ラートは,創世記 9章3,4節に触れ,全人類はノアの子孫であるゆえ,これは「全人類に対する布告」であるとしています。3
15 血に関するこの律法は,人間の生命を尊重することを強く促した神の宣言と結び付いていましたから,わたしたちは,ユダヤ教牧師ベノ・ジェイコブの次の見解も理解できます。
「こうして,これら二つの禁令は帰一する。これらは,人間性の,その文字通りの意味における最も基本的な要求である。……肉を食べてよいがその血を抜くように,また人の血を流してはならないということは,生けるものの世界における人間の地位を示唆している……要するに,血の禁令の理由,それは道徳的な性格のものなのである。……後代のユダヤ教は,この一節を,すべての人間の基本倫理を確立するものと見るようになった」。(下線付加)4
事実,ユダヤ教徒は後に,創世記の始めの部分から,人類に対する七つの「基本的律法」を抜き出しましたが,ノアとその子らに与えられた血に関するこの命令もその中に数えられました。5 そうです,大抵の国々の国民は従ってきませんでしたが,これは,実際には全人類に対する律法なのです。―使徒 14:16; 17:30,31。
14,15 血に関してノアに与えられた命令の性質はどのようなものでしたか。また,この点でユダヤ教牧師のどんな注解は適切ですか。
16 後に,イスラエル国民に与えた律法の中で,エホバ神は殺人行為を禁じて,ノアに与えた命令が依然除かれていないことを示しました。(出エジプト 20:13)また,それと一致して,神は血を食することをも禁じてこう言われました。
「イスラエルの家のだれか,あるいはその中に外国人として宿っている外人居留者のだれかで,どんな血にせよ血を食べる者がいれば,わたしは必ず,血を食べているその魂に敵して顔を向け,その者をその民の中からまさに断つ」―レビ 17:10。
17 イスラエル人は,動物の血を使用することをただ一つの方法でのみ許されました。それは血を神への犠牲としてささげる場合であり,これは神が生命の与え主で,人間が神に恩義を受けていることを認めてなされました。神はこう告げました。「肉の魂はその血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分たちの魂のために贖罪をするため,それを祭壇の上に置いたのである。血が,そのうちにある魂[もしくは,命]によって贖罪をするからである」―レビ 17:11。
16,17 イスラエルに対するどんな律法は,血に関する禁止令が依然として適用されていたことを示していましたか。また,イスラエル人が血を使用することのできた,ただ一つの方法は何でしたか。
18 犠牲としてではなく,食物のために殺された動物の血についてはどうでしたか。神は自分の崇拝者たちに対し,野獣もしくは鳥を捕えた狩猟者のなすべき事をこう告げました。「その血を注ぎ出してそれを塵で覆わねばならない。あらゆる肉なるものの魂は,そのうちにある魂によってその血だからである。そのためにわたしはイスラエルの子らにこう言った。『あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。それを食べる者はみな断たれる』」―レビ 17:13,14。申命 12:23‐25。
19 こうして血を注ぎ出すことは単なる宗教上の儀式ではありませんでした。それは実際のところ,ノアに与えられた神の律法を拡張したものでした。動物を殺す場合,人はその生命が神からのものであり,また神に属するものであることを認めるべきなのです。血を食べず,それを祭壇もしくは地面に『注ぎ出す』ことによって,イスラエル人は,事実上その生き物の生命を神に返していました。
18,19 (イ)イスラエル人の狩猟者が食物のために動物を殺した場合,どんな対応策が求められましたか。なぜですか。(ロ)この命令に留意することにより,彼らはどんな事実に対する認識を示しましたか。
20 イスラエル人にとって,血によって表わされた生命を軽視することは極めて重大な過ちでした。血に関するこの律法を故意に無視する者は「断たれる」つまり死に処されることになっていました。(レビ 7:26,27。民数 15:30,31)自然死しあるいは他の野獣に殺されたゆえに血をそのまま含む動物の肉を食べた場合でも人はある程度の罪を負うことになりました。―レビ 17:15,16。レビ記 5:3; 11:39と比較してください。
20 (イ)血に関する神の律法を破ることが重大なとがであったことは,どんな刑罰によって示されていますか。(ロ)肉をその血と共に食べることが罪となることをどの聖句が示していますか。
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2008/03/06/
21:59 個人研究 /
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フィンランドの「目ざめよ!」執筆員
「フィンランド人の文化,価値観,考え方に深遠で広範な影響を与えた書物として,聖書以上のものはない」。―「ビブリア350―フィンランドの聖書と文化」(フィンランド語)。
聖書を,ご自分の言語で手に入れることができますか。きっとできるでしょう。というのも,聖書は,全巻訳ないしは部分訳として,世界の2,000以上の言語に訳されているからです。それは,たまたまそうなったのではありません。歴史を通じて幾多の人が,聖書を自分の土地の言語に翻訳しようと懸命に働き,それに伴う大きな障害に屈しませんでした。ミカエル・アグリコラもそのような人のひとりです。
アグリコラは,聖書のフィンランド語への翻訳を手がけた学者です。この学者の一連の著作は,今日のフィンランド文化の発展に寄与しました。アグリコラが,時代を明るく照らした人と称されているのももっともです。
アグリコラは1510年ごろ,フィンランド南部のトルスビュー村で生まれました。父親は農園主であり,アグリコラという名字は,「農業を営む人」という意味のラテン語から来ています。アグリコラは二か国語地域で育ち,フィンランド語もスウェーデン語も話したことでしょう。ビボルグという町のラテン語学校に通ううちに,語学の才能を伸ばしました。後に,当時フィンランド行政の中心であったトゥルクに移り,その地で,フィンランドのカトリック司教マルッティ・スキュッテの秘書として働きました。
アグリコラの生涯のこの時期,スカンディナビアは騒乱状態にありました。スウェーデンは,スカンディナビア諸国の構成するカルマル同盟からの離脱を目指していました。1523年にグスタフ1世は,独立したスウェーデンの王となりました。このことは,フィンランドに少なからぬ影響を持つことになります。当時のフィンランドは,スウェーデンの支配する一つの州であったからです。
新しい王は,自分の権力基盤を固めようとしていました。この目標のため国王は,当時北ヨーロッパ全域に押し寄せていた宗教改革を受け入れました。自分の領土の宗教をカトリックからルター派に変えてバチカンとの結びつきを断ち,カトリック司教たちの権威をそいだのです。こうして国王は,教会の資産も手に入れました。今日に至るまで,スウェーデンとフィンランドの国民はどちらも,おおむねルター派に属しています。
プロテスタントの目指すところの一つは,教会の礼拝をラテン語ではなく,人々の日常の言葉で行なうことでした。そのため1526年に,クリスチャン・ギリシャ語聖書,つまり「新約聖書」がスウェーデン語で出されました。ですが,フィンランドにおいて,プロテスタント化の動きはそれほど強くありませんでした。当時,聖書をフィンランド語に訳そうとする意欲はあまり見られませんでした。なぜでしたか。
おもな理由は,フィンランド語の書物がほとんど何もなかったからです。1500年代半ばまで,フィンランド語で書かれたものといえば,カトリックの幾つかの祈祷文だけでした。ですから,聖書をフィンランド語に訳す仕事のためには,多くの単語の表記を考案すると共に,全く新しい単語や言い回しを幾つも作り出す必要がありました。しかもこれを,フィンランド語の教本もなしに果たさねばなりません。それでもアグリコラは,聖書の翻訳に取りかかりました。
1536年,フィンランドのカトリック司教スキュッテは,アグリコラをドイツのウィッテンベルクに派遣しました。神学と言語の研究をさらに行なわせるためでした。この町は,それより20年前,ルターが有名な「95か条の提題」を城にある教会の扉に釘で打ちつけて,そのハンマーの音がこだましたとされる所です。
ウィッテンベルクに滞在した間に,アグリコラは,自分に託された仕事以外のことも手がけました。聖書をフィンランド語に翻訳する記念碑的な事業を開始したのです。1537年,スウェーデン王あての手紙の中でこう書いています。「神が私の研究を導いてくださる限り,かねて着手したところにしたがって,新約聖書をフィンランド人の言葉に訳すことを続ける所存でおります」。フィンランドに戻ってからも,アグリコラは学校長の職を果たしながら,自分の翻訳の仕事を継続してゆきました。
アグリコラにとって,聖書を翻訳することは非常に骨の折れる仕事でした。それ以前の他の聖書翻訳者の場合と同様です。ルターもこう述べたことがあります。「ヘブライ人の聖書筆者にドイツ語を話させるというのは,何とも大変で厄介なことだ」。アグリコラが他の幾つかの翻訳を参考にできたのは確かですが,大きな障害はフィンランド語そのものでした。フィンランド語は事実上,いまだ文字で書き表わされたことがなかったのです。
ですからアグリコラにとっては,設計図もなしに家の建築を手がけ,それも散らばったわずかばかりの資材で工事を行なうようなものでした。どのようにして仕事を進めたのでしょうか。アグリコラはまず,フィンランド各地の方言から語句を選び取り,発音にそってそれを書き表わしました。フィンランド語の「政府」,「偽善」,「写本」,「軍隊」,「模範」,「書士」などの語を最初に作り出したのはアグリコラであった,と見られています。複合語を作り,派生語も考案し,他の言語とりわけスウェーデン語からの借用語も生み出しました。そうした語句の中に,「エンケリ」(み使い),「ヒストリア」(歴史),「ラムップ」(ランプ),「マルッテューリ」(殉教者),「パルム」(やしの木)などがあります。
ついに1548年,アグリコラによる第一分冊が出されました。つまり,「セ・ウシ・テスタメンティ」(新約聖書)の第一巻です。ある人々によると,翻訳そのものは5年前に終わっていましたが,資金不足のために刊行が遅れました。アグリコラ自身が出版費用の大半を賄ったようです。
3年後に,「ダウイディン・プサルタリ」(詩編)が出されました。これは,アグリコラが仲間の手助けを得て訳したもののようです。アグリコラはさらに,モーセの書や預言書の翻訳も先頭に立って進めました。
アグリコラは自分の力の限界を謙遜に認めて,率直にこう記しています。「クリスチャンや信仰者またこの聖典を読む人のだれにせよ,この未熟な翻訳に何かの誤り,奇妙な点や読みにくい箇所,また目新しい言い回しなどを見つけるとしても,どうか冷淡な反応をされないように」。その訳に何らかの欠陥があっても,聖書を一般の人々の読めるものにしようというアグリコラの不屈の熱意には,大いに褒めるべきものがありました。
1557年の初め,ルター派のトゥルク主教となっていたアグリコラは,スウェーデンとロシアの国境紛争を裁定するための代表団に選ばれてモスクワに派遣されました。その任務は成功裏に終わりました。ですが,帰りの旅の厳しさのためか,アグリコラは図らずも病に倒れます。帰国の途上で亡くなりました。47歳のときとされています。
比較的に短い生涯であったため,アグリコラがフィンランド語で出した書物はわずかに10冊,合計2,400ページほどです。それでも,「時代を明るく照らした」この人は確かに,フィンランド文化の発展に活力を与えた,と多くの人からみなされています。以来,フィンランド語とその国民は,文芸の面でも科学の面でも大きな進展を遂げてきました。
さらに重要な点として,ミカエル・アグリコラは別の面でも光を照らす働きをしました。フィンランド語の人々のために神の言葉の光をいっそう明らかにすることに寄与したからです。そのことは,アグリコラの死を悼んで書かれたラテン語の詩の中で言い表わされています。「遺書を残しはした。とはいえ,月並みの遺書ではない。その残したもの,それは彼の手になる作,聖なる書物のフィンランド語訳。これぞ称賛すべきもの」。
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フィンランド語の聖書
フィンランド語の最初の全巻訳聖書は,おおむねミカエル・アグリコラの翻訳に基づくもので,1642年に出版されました。やがてそれは,フィンランド・ルーテル教会の公式聖書となりました。年月と共にその訳文は幾度か小さな改訂を施されつつも,1938年まではおおむね同じ体裁をとどめました。最新の改訂は,1992年になされたものです。
フィンランド語への他の全巻訳聖書としては,エホバの証人発行の「新世界訳聖書」があるのみです。それは1995年に出されました。それより前の1975年,エホバの証人は,「クリスチャン・ギリシャ語聖書」のフィンランド語訳を出版していました。「新世界訳聖書」は可能な限り原文の厳密な訳を試みたものです。今日までに,合計1億3,000万冊が印刷発行されました。
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2008/02/21/
11:37 個人研究 /
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